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歴史を変えた江戸の大地震―東日本大地震と原発事故で日本はどう変容していくのか

   【2011-3-30:宮地忠継】今回の大地震の際、筆者は中野の事務所で仕事をしていた。突然ゆらゆらと感じたので、「まずい、高血圧かな!」と思った。しかし余りに長く続くので地震と気が付き、本箱が崩れないようにと押えた。一段落したところで通りに飛び出してみると、隣などの事務所の人々が出ていた。「仙台が震源だそうだ」と言う話を聞き、これだけ離れていてこれだけの揺れなのだから、大変なことだと驚いた。直後に宅建協会で会議があったので出かけると、ほとんどの委員が来ていた。会議中に何度も強い揺れが来たが、とにかく会議を完了し解散した。

  とまあ、筆者の場合はこの程度で済んだのですが、ニュースを見て驚いた。このあとは読者の皆様も十分にご存知のことだから、あえて推移は繰り返さないが、東京までも含む東日本全体に関わる大災害だ。特に、原発の事故があることは、阪神・淡路大震災とも全然次元の違う深刻さとなっている。死者・行方不明三万人以上、広大な水田が冠水し、また原発事故により福島県全体が農作物が一時出荷停止になろうとしている。多くの工場も破壊され、我が国の工業生産に支障が出るだけではなく、昨今の新聞では日本からの部品供給がないため、世界の相当数の工場が操業縮小に追い込まれていると言う。このことを我々はどう捉えたらよいのか。

 この事件により我が国社会はどう変容していくのか。政治はどうなるのか。その事を考えるに当たって、まず我が国の大地震の歴史から見てみよう。

日本列島を襲った大地震の歴史

 初めに災害と政治の位置づけですが、これは非常に関係があるのです。古代中国の伝説上の英雄である堯(ぎょう)は黄河の大洪水をうまく治めることにより帝に推されました。災害を治めることのできる者が、政治をする資格があるのです。

 さて、我が国には災害が非常に多い。分けても地震は古墳時代以来、膨大な記録があります。この地震も色々な分け方がありますが、たとえば三陸沖型地震、東海・南海型地震、相模トラフ地震、その他の地震などと分ける分け方もあります。前の三つはいずれも、日本列島の乗っているプレートが、その下に入り込んでくる太平洋の下にあるプレートに引きずり込まれ、ある段階で一気に元に戻る瞬間に起こるものです。一定の期間ごとに定期的に地震と津波が起こります。

 三陸沖型地震は江戸時代にも何度も起こり、最近は明治29年(1896年)と昭和8年(1933年)に起きて大変な犠牲を出しています。東海・南海型地震は静岡県沖とか和歌山県沖で起こる地震で、今回の地震の起こる前ではわが国最大の地震と言われてきた宝永地震(1707年)、安政東海・南海地震(1854年)、昭和東南海地震(1944年)があり、やはり地震と津波で大きな犠牲を出しています。

 相模トラフ地震は元禄地震(1703年)、関東大地震(1923年)と起きています。その他の型は、地中の活断層のずれなどによって起こる直下型の地震で、三条地震(1828年)、善光寺地震(1847年)、安政江戸地震(1855年)、濃尾地震(1891年)、阪神大震災(1995年)などです。ここでは、社会との関連を見る意味で、江戸における地震を見てみましょう。

発展期の若い江戸が克服した大地震

 まず元禄地震です。これは元禄16年11月23日、西暦では1703年12月31日午前2時ごろに房総半島先端野島崎沖を震源として発生しました。マグニチュード8、死者は八千人ぐらいといわれています。この時のことは新井白石が書きとめています。将軍綱吉の時代で、彼は甲府の徳川家宣に仕えていました。湯島の辺に住んでいたのですが、地震を感じすぐに飛び起き、妻子を庭に出してそこにとどめ、自分はすぐ家宣の屋敷(江戸屋敷)に向かいます。その間、大きな揺れを何度も感じます。家は小船の大波に動かされるがごとくだと言っています(「折りたく柴の記」から)。

 震災での幕府の出費も大きかったのですが、これより少し前より、時の勘定奉行・荻原重秀は流通している金貨、銀貨は幕府が作っているものだから、それは幕府の信用があればよいので中身にこだわるべきでないと言う、当時としては非常に進んだ考えを持ち、通貨を改鋳し、貨幣の流通量を増やしていました。こうしてゆるいインフレに持っていって経済を誘導し、また幕府の収入を増やしました。また、この頃は経済の中心はまだ関西にあり、江戸は発展しつつある若々しい町でした。幕府もまだ伸びている段階だったわけです。結局、国家的災害も克服し、次に白石が政治の舞台に登場してきます。体制の勢いと言うものが災害克服に関係してきます。

幕府崩壊に影響を及ぼした江戸末期の大地震

 次に江戸を襲った第二の大地震、安政江戸地震を見てみましょう。これは安政2年10月2日、西暦では1855年11月7日午後10時ごろ、東京湾の荒川川口辺を震源として発生しました。マグニチュード6.9。

 この地震はまさに江戸を直撃し、本所、深川の辺りは川の堆積物でできた地盤の弱い地域(沖積層)だったので液状化現象に伴い大きな被害を出しました。また日比谷の入り江を埋め立てて作っていた今の丸の内一体の大名屋敷でも、相当数の屋敷や長屋がつぶれ、多くの死者を出しました。また、同時に火災が発生しました。注目すべきは、地盤の固い、つまりもとからの半島の上にある日本橋、京橋、銀座は被害が少なかったことです。この震災も町方の死者四千人、武家屋敷も入れると一万人に近い人々が死にました。

 幕府はもとより救援活動に力を入れましたが、収入を確保するために旗本の給料を半分に減らしたりしました。老中首座・阿部正弘には明確な方針がなく、地震の際に諸大名に国許に帰ることを許すなどして幕府の権威を落としました。ちょうどこの時、ペリーの艦隊(1853年)が来た直後で、一気に幕府は追い詰められていきます。町方の救済には江戸の家持(地主のこと)・家主そして有力商人がどんどん金を出します。この間、幕府は旗本対策、救済できゅうきゅうとしています。町人たちには幕府のスタンスがはっきり見えてきます。こういうことも絡んで討幕運動が盛んになってきます。幕府に軍事費がかさみ、町人から冥加金(借入金)を集めようとします。しかし、幕末の頃は、京・大阪の大商人はむしろ薩長(薩摩藩や長州藩)に金を貸したがります。こうして幕府は崩壊しますが、実は地震が一役買っているのです。

昭和初期の不況に影を落とした関東大震災

 最後に関東大地震を見てみましょう。これは皆さんご存知の通り、大正12年(1923年)9月1日正午に起きました。震源は相模湾、マグニチュードは7.9です。地震と火災で十万人を超える死者を出しました。この頃の日本は第一次大戦後の好景気からの反動による不景気状態から脱却できず、震災のキズを十分に治癒できませんでした。やがて不景気から昭和金融恐慌(1927年)に行き、金解禁(1930年)の失敗から経済再建にもがきつつも、結局は満州事変(1931年)、日中戦争(1937年)から1941年の大戦(太平洋戦争)に突入していきます。社会に上向きの力が乏しく、震災によって被った損失を克服できません。

 さて今回の大震災、原発も含んでいるので完全に首都を巻き込んだ震災と言っても良いと思いますが、今、我が国社会の状況は上向きなのでしょうか、下向きでしょうか。震災復興関係費として今後政府に膨大な出費が必要なことは誰の目にも明らかです。一方で目先の産業活動は少し弱まるので、来年度の税収が大きく減ることは明らかです。卓越した金融政策が必要です。歳出削減も急務でしょう。それができない場合には、社会は新しい方向に進まざるを得ないでしょう。

(みやち・ただつぐ=全国貸地貸家協会専務理事・全国貸地貸家協会新聞編集長)

■(株)耶馬台コーポレーション(全国貸地貸家協会新聞発行元):http://yamatai.jp/
■全国貸地貸家協会:http://park16.wakwak.com/~fudousanshinbun

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