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【田中順一郎氏追悼】実力と人望の“あったか経営者”田中さんを偲んで

 【2010-02-03:日本不動産ジャーナリスト会議幹事・大越武(元日刊工業新聞論説委員、元大京取締役)】30年間も通い合っている同じ痛風のクリニックで、1年前、「大越さん、お元気ですか」と、声をかけられたのが最後になってしまった。最近は、不動産協会の新年会や総会にも顔を出していなかったので、案じてはいたのだが、その時は足も引きずっておらず、いつもの温厚な笑顔と、張りのある声だったので、すっかり元気になられたと安心していたのに…。
 田中さんを初取材したのは、第1次オイルショック後、三井不動産がマンション事業に本格参入した頃で、その担当部長として大車輪となって活躍していた。当時、渋滞激しい都内の用地手当てに、「前の晩、報告の上がってきた候補地を、翌朝早くクルマで、すいすいすべてを見てしまうのだ。事業はスピードが勝負だからね」とノウハウを聞かされたのが、やけに印象に残っている。その豪快さからも、並みの人ではないなと感じ、マークした通り、その直後に取締役になり、すでに大三井不動産の後継の頭角を現していた。あとは次から次へと新規・メーン事業を渡り歩き、実績を残し、トントン拍子の大出世。

 しかし、田中さんは、こうした実力・実績だけで社長になったわけではない。社長になる前、会長だった江戸英雄さんが、「わが社にもテクノクラートがいるが、田中クンは人柄がいい」と、よくほめていた。その通り、田中さんは攻めのタイプながら、お人柄がよく、江戸さん同様、よく人の面倒をみて、世話をし、“あったかみ”があった。ライバル視していた住友の安藤太郎さんも、「田中さんには人望があるね。社長の条件の一つだ」といっていたものだ。

 田中さんには、公私ともども本当にお世話になった。「公」は、日刊工業新聞の編集部長時代、田中さんが東京商工会議所の副会頭になるときの大事な常議員選挙の時でも、「日刊工業新聞社に票を」と、お願いに上がったところ、自分のかなりの票を回してくれて当選できたこと。また、小生が大京に転職していた時でも、不動産協会理事長時代に、産業再生機構入り間近の大京を、副理事長職の執行部ポストにしていただいたことなど、身に余る恩恵を受けた。「私」の方でも、痛風発作の激痛に襲われた35歳の若いとき、その場で相談に乗ってくれ、すぐ名医を紹介してもらったことなど、限りない恩人だ。

 今思うと、社長・会長時代、バブル崩壊に伴う大量の不良資産の損失処理の後始末に長く苦闘したのが、命を縮める原因になったのであろう。しかし、その当時でも毎年夏、蓼科にわれわれ親しい記者を集め、いいたい放題の話をよく聞いてくれていたし、よく奈良・京都の仏像の話をし、「仏像をみていると、あきがこないんだ」と言っていたから、仏像趣味が唯一の安らぎになっていたのだろう。その田中さんが今度は、ほとけ(仏)になってしまった。合掌。

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