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小笠原諸島の領有権確保と明治丸が果たした役割

 【2009-06-30:飯田太郎】明治丸という船がある。1874年に明治政府の発注により英国で建造され、75年2月に日本に回航された灯台巡視船である。現在は、国指定の重要文化財として東京海洋大学(旧東京商船大学)越中島キャンパス(東京都江東区)に保管されている。
meijimaru 灯台巡視船の主な役割は岬の突端や離島に設置される灯台の建設や補給だが、高性能の明治丸はロイヤルヨットとしても使用できる仕様だった。国民の祝日である海の日は、函館で乗船された明治天皇が横浜に上陸した日を記念して設けられた。明治丸は琉球処分や壬午事変にも登場するが、小笠原諸島が日本領として確定した時にはとりわけ大きな役割を担った。
 日本の排他的経済水域(EEZ)は4,479,358km²。領土面積は世界で60番目だが、EEZの広さは世界第6位である。EEZの約30%は小笠原諸島を基点としている。海洋国・日本にとって小笠原の存在価値はきわめて大きい。小笠原が日本領として国際的に認められるまでのドラマと明治丸が果たした役割を紹介したい。
重要文化財「明治丸」ホームページhttp://www.e.kaiyodai.ac.jp/facilities/meiji/index.htm
小笠原の領有権確保に積極的でなかった江戸幕府

 小笠原についての最古の記録は1543年にスペイン船が西太平洋を航海中、小笠原諸島と思われる無人島群を遠望したことだといわれている。日本人と小笠原の関係は、1670年に紀州の蜜柑船が漂着したのが最初である。帰還した乗組員の報告をもとに1675年に幕府が調査船を派遣、「此島大日本之内也」という標識を建てた。しかし小笠原への渡航を企てたとして1839年に渡辺崋山たちが処罰されたことが示すように、鎖国体制のもとで幕府は小笠原の領有権確保に積極的ではなかった。

 この間に天然の良港に恵まれた小笠原は捕鯨基地として欧米人に知られるようになり、1827年にイギリス人が領有を宣言した。1830年にはアメリカ人のダニエル・セーボレーたちが入植し、1857年に日本来航に先立ち小笠原に寄港したペリーがアメリカ人を首長とする自治政府の樹立を宣言した。この他、ロシアやドイツも小笠原に関心を示し艦船を派遣している。

 こうした欧米諸国の動きに対して、江戸幕府は1861年に改めて小笠原の領有を宣言、咸臨丸を派遣して測量を行い八丈島の島民を入植させた。しかし、間もなく攘夷の動きが激化したため日本人入植者は退去、小笠原には欧米やハワイ等の出身の住民だけが暮らしていた。このように小笠原は3世紀以上にわたり、いずれの国も実効支配をしない状態が続いていた。

英国軍艦より2日早く小笠原に到着した明治丸

 明治政府も当初は小笠原に大きな関心を示さなかったが、1871年に在島のアメリカ人が小笠原の帰属を本国政府に求め、1872年にはドイツ公使が、イギリス政府が出版した本には「イギリス領」となっていることを指摘、1873年にはイギリス公使パークスが、日本が小笠原を放置するならばイギリス領とするとの意向を示した。

 1875年夏にいたり一部の在島アメリカ人が本国に援助を再度要請し、さらにイギリスによる軍艦派遣準備等が持ち上がったことに危機感を強めた明治政府は、調査団を急遽小笠原に派遣することになった。

 この時、政府調査団が乗り組んだのが明治丸である。英国から近く軍艦を派遣するとの通告を受けても、適当な艦船が見当たらないため船足の速い新造船である明治丸が派遣されることになり、ほぼ同時に横浜を出港した英国軍艦よりも2日早く小笠原に到着した。

1876年、小笠原を日本領として世界に通知

 明治丸に乗船した政府調査団は文官だけで構成され、武器の代わりに大量のワイン、ウイスキー、ジン、砂糖などを現地への土産として積んでいた。住民代表のセーボレーたちと友好的な雰囲気のなかで交渉が成功し、島民全員が日本への帰属に同意した。

 遅れて到着した英国外交官も現地住民の意向を尊重し異議を唱えなかった。英国軍艦は現地住民との交渉結果を東京に伝える政府の使者を乗せて横浜に戻っていった。

 翌1876年、政府は小笠原が日本領であることを列国に通知したが、反対する国はなく日本の主権が国際的に認められた。

 欧米系住民が多く暮らす小笠原では、太平洋戦争の直前まで小学校から英語教育が行われていた。日本国籍となった後も欧米系の姓を名乗り、戦時下にセーボレーが瀬掘というように強制的に改姓されたが、戦後旧姓に復した人も多い。現在の小笠原村の教育課長もセーボレー孝氏である。

平和裏に小笠原の領有権を確定した歴史的意義

 小笠原諸島は、北方4島、竹島、尖閣列島のような他国との間で領有権をめぐる係争がなく、この海域の排他的経済水域はきわめて安定している。背景に列国の相互けん制があったとはいえ、小笠原の領有権確定が世界史にもでも珍しいほど平和裏に行われたことの意義は大きい。当時の文献には明治維新を担った大久保利通、伊藤博文、大隈重信などの名前が頻繁に登場する。明治維新を担った英傑たちの迅速で大胆な行動力や決断力は、さすがという感がする。

 風雨にさらされている明治丸は傷みがひどいため補修工事中だが、海洋文化をテーマとする「明治丸シンポジウム」が、東京海洋大学とNPO法人江東区の水辺に親しむ会等の地域組織との協働で毎年開催されている。補修後の明治丸とその周辺地域を「明治丸海事ミュージアム」として整備するための募金活動も始まっている。

 本年2月には、明治丸と明治期に設置された各地の灯台が近代産業遺産として認定された。日本が海洋国家として再認識されるなかで、明治丸にも新たな光があたりはじめている。

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